2009年8月9日日曜日

本栖湖ウィンドサーフィンツアーと太宰治と村上春樹

先週、本栖湖へウィンドサーフィンに行った。
車で若い輩と相乗りしていった。私が運転して、その輩は助手席。

本栖湖まで2-3時間だから、相乗りして会話がはずむのならそのほうが楽しい。

行くときは、期待感が先行して、楽しい話題が先行する。

帰りは、現実先行だ。明日の仕事、帰ってからやらなきゃいけないこと、渋滞の心配・・・・・・。吹いてウィンドサーフィンを楽しめたのなら、その会話も楽しく盛り上がれるかもしれない。でも、雨で消化不良・・・・。

帰りの車の窓には、容赦なく雨がたたきつけられる。富士あたりだと、いつも聴いているFM横浜は受信できないから、手元のCDを聴いている。この日はマイルスデイビス。

「ジャズって雨の日にあうんですね」助手席の輩が言う。

確かにそう思う。


ふと、その輩が、太宰治の話題をもちだした。

「「人間失格」って本知ってます?最近その本読んだんですよ」




太宰治だろ?高校の頃読んだよ。ひたすら、くらいだろう。あまり好きになれなかったけど、その本の中のほんの一言だけ覚えている。『もはや、完全に人間でなくなりました。』っての」と答えた。

「あれは、高校生で読んじゃいけないですよ。モルヒネうったり、・・・。」といくつかの本の中の、非道徳的な部分を上げながら、若い助手席の輩がいう。確かに、健全な精神からはほど遠いように思えるけど、人がもつ心のネガティブな面、ポジティブな面を知って、心を強くしていく機会とすることも必要な気がする。

「なんで、また、今ごろそんな本読んでるの?」

「友達に薦められて・・・。面白いっていうから、読んでみた。読みやすかったし。」

・・・・・・・・

太宰治なら、『斜陽』を読んでみたら?。すごいなっと思ったよ」




いくらか、太宰治について、会話した後、「斜陽」という本を勧めてみた。

正直言って太宰治なんて高校生で読んだっきりだ。自分の人生に大きな影響を与えた古人といえるのかもしれない。

当時「斜陽」を読んで、深い感銘を受けた。時代の変化から、社会の中で「斜陽」する貴族階級層。その階級に生まれ生きていくことを運命に義務付けられた人たちの生きざま、そしてゆるがぬプライド。そのスピリッツは、いまだに心に残っている。


と、今度は、村上春樹の本って読んだことあります?っと助手席の若い輩が聞いてきた。

「うん、大学生のころ、彼の著作を読んで、当時すごく感動したよ。」

少し世代ギャップを感じているようだ。彼にしてみれば、今とても話題になっているから、読んだというのだろうが、私が答えた内容は、ずーっと昔の話だ。

「その時『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』という本を読んでね。






その本にすごい感銘をうけて、そのあと、彼の別の著作『羊をめぐる冒険』っていうのを読んだんだ。いやー、すげえ、ってぶっとんだよ。」と助手席の輩に話してみる。






そして「でも、その後、『ノルウェイの森』っていうのを読んで、それ以来読まなくなったね。世間的にはその作品が出世作だったんだけどね。」と続けてみた。

彼は、「ノルウェイの森」という本を読んだということだった。


ノルウェイの森」が刊行された当時は、本格的な純文学として絶賛されていたよと話した。






個人的に村上春樹に期待していたのは、なまなましい恋愛物語というよりは、そういう人間の感情や現実の生活感を、一度まったく別のものに置き換えて再構成して見せる感覚だった。たとえばサルバドール・ダリの絵を見ているようなかんじ。


ノルウェイの森」を読んだときには、どちらかというと現実的ななまなましさだった。だから、その後もう、読もうという意欲が失われてしまったような気がする。そういえば、「ダンスダンスダンス」は上巻で挫折。「海辺のカフカ」は、タイトルは気になるものの、よんでいない。


太宰治は今年生誕100年。
村上春樹は昨年ノーベル文学賞候補。

助手席の輩にしてみれは、時代の話題に乗って読んでみたということだろう。
私にとっては、名作といわれる本が、世代を結び付ける力があるのだなあということが発見だった。


雨の本栖湖。

ウィンドサーフィンを楽しめる風は吹かなかったけど、心の旅にはなっていたようだ。

2009年3月22日日曜日

地方を殺すのは誰か

「地方を殺すのは誰か」という本を読んだ。岩崎芳太郎氏の著作。
地方が現在直面している苦境を切々と書いている。

慶応大学をで て、三井物産で国際ビジネスを行い、現在鹿児島の岩崎産業で代表取締役を務める氏の著作だけあって、非常に深い洞察力に感銘を受けた。国内の政治や経済を 取り巻く環境の不整合が氏にははっきりと見えているようだ。しかも、その洞察に対する、氏の対応を隠さずに記している。

この本の洞察に深い感銘を受けるのは、自己に対しても加えている洞察も甘えを許さず客観的であるからだと思う。


行政に携わるものにしろ、経営に携わる者にしろ、サラリーマンにしろ、この本は必読の書ではないだろうか?。何がいったい問題なのか、どのような出口があるのかこの本を読めば、はっきりと理解されるのではないか?。





地 方を支えるサービスが、中途半端で安易な規制緩和の中で崩壊しつつあることは特に問題だと思う。明確なルールを失い、官民が双方努力するというあるべき緊 張関係を維持できなくなっているようだ。またそのルールの曖昧さが、新規参入をめぐる不正に結びついているようである。

役人も私利を優先していると本書では語っているが、恐らく、よりどころとすべきものが曖昧だからだろう。




以 下に共感する問題点を掲げておく。重ねて言うが、この本は環境に関する鋭い洞察をくわえているが、自己に対しても洞察をくわえ ている。決して甘えを許していない。これは批判を受ける側の人間の尊厳を尊重し、そして、自ら決しておごることなきよう厳しくあろうとする氏の清潔感だと 思う。


1.地方には地方経済を支えるインフラ産業が存在する。地方は僻地も抱えているケースが多いわけだが、その僻地は人口が少 なく、かかるコ ストのわりには消費が拡大できないので、資本主義的に経営がなりたたない。これまでの地方社会では域内の相互扶助の精神を持った地方産業が、赤字事業と黒 字事業を組み合わせて持続可能な経済を創造して、地域を支えていたわけだ。これはきわめて人道的かつ創造的なビジネスモデルである。

2. 安易な規制緩和というのは、新規算入事業者にその黒字事業だけに参入すること認めた点にある。新規参入組は、黒字事業だけで収益をあげられるので、低価格 で商品を販売する。もともと地域のインフラを背負って事業を行っていた地方事業者は、黒字事業の市場が値崩れをおこし収益を得られなくなると、僻地の赤字 事業に補填する原資を失うわけだ。すると、全体としての経営のバランスが崩れる。安易な規制緩和では、退出も自由だとしているが、それをやろうとすると、 地域を切り捨てることとなってしまう。人が生きているのだからこれはとても難しい。深い問題だ。
結局、地方からの税金投入ということになったらし い。一つの解決策だ。個人的に思うのだが、これは、以前NTTの回線とインターネット電話の利益構造で問題なった話にとても近い話で、競争主義で解決でき ない問題である。したがって、ユニバーサル料金のような課金を考える必要がある。赤字事業の補てん分を、新規事業者に課税して参入を認めるべきなのだろ う。
また、別の事例でいえば、医療崩壊が挙げられるだろう。需給バランスの調整弁だった医局制度を安易に廃止させようとしたことにより、医師が分 野ごとに遍在することになった。医師として活躍するまで成長するには長い経験も必要だ。市場原理などという束の間の資源再配分構造にゆだねるべきものでは ない性質の職務だ。
建設も同様である。

3.安易な規制緩和のもうひとつの課題がある。明確なルールが存在しないために、白黒がつ けられない。だから、談合により成立させようという行動を助長してしまう。この本の中では、ある事件を告発している。ある特定事業者が所有する広大な私有 地を、県が市場価格に対して驚くような高額な価格で買い付けたのだが、経緯が公開もされないままに、巨額の税金が投入されてしまった状態と、それに関連す る政官財の動きだ。同時に、岩崎産業に対する事業活動の妨害とも思われる動きが見受けられる。
個人的に思うが、このような地域のインフラを支える 分野は、関係者の議論をオープンにして、行うべきだろう。地域インフラには、巨額の投資が必要なのだから、その有効活用と事業の継続に対し一方的な話で進 めてはいけない。安易な判断で一民間企業の事業妨害を行ってしまっては、全体として疲弊していく。
資本を拠出しあって最大限の効果を出すために、行政はその利益の調整の場をオープンディスカッションの下で提供するべきだ。
談 合の糾弾すべき側面はその隠ぺい性による私利をむさぼる醜さだ。話し合いでの解決には良いところも多いのだから、オープンに議論をつみかさねていくべきで はないかと思う。その時に、開かれた会計手順で将来への見通しを立てていること、市場での収益と費用のとらえ方が持続可能であること、少なくとも一定の集 団に支持されていること、損失を負う予定の集団への一定のサポートがおりこまれていること、魅力あること、そして実行可能な資力と責任能力などが評価され ているべきである。

4.金融マニュアルの不備と拘束性のアンバランス。金融マニュアルにより、結果的に貸し渋りや貸し剥がしが起こってい る現実が訴えられている。マニュアルの考え方に現金(キャッシュフロー)偏重の強烈な偏りがあるとともに、一律に規制してしまっているらしい。業界構造、 地域の産業構造に対して柔軟に対応できないため犠牲者が続出しているようだ。

この点は、建築基準法でも非常によく似た現象がおこったわけだ。机上の空論で運用してしまい、生きている産業を疲弊させてしまう。現在、運用上の緩和を行い、影響を希釈している展開が続いている。その状況は、金融上も同様の現象として表れているようだ。


5. 官が支配力を行使していく状態が強まっている中で、その無作為の弾圧や干渉は、地方の企業や、中小企業に対していたましい。個人的に思うのだが、迫害に近 いのではないだろうか?。大企業を中心に規制を作るので、大企業は経営的に大きな影響を受けない。永遠に大企業は勝ち続けていく一方で、永遠に負けを強い られる集団が存在しなければならないわけだが、それを中小企業や地方企業に押しつけようとしているようにしかみえない。悪代官が悪徳商人に「お前も悪よの お」といいながら「お代官様も・・」と高笑いする時代劇を思い浮かべるのは、私だけだろうか?

この点についてもう少し補足すると、昨年末 から継続している大企業の派遣切りという現象に見られるように、少なくとも相互扶助という精神は、大企業においては無い。ちょっと前に社会問題化した偽装 請負などでも同じである。人権はいったいどうなってしまっているのか?世間が騒ぎださない限り、何をやっても許されると思っているようだ。

もっとも、これもキャッシュフロー偏重の国の政策がそういう行動をとらせてしまうという現実もあるかもしれない。

お金は大企業を中心に規制を作るということは、このような社会の形態を模範にしなさいといわんばかりで、国が言っているようなものだ。国の思想自体が、人間の尊厳を失っているのだろう。


6.総じて、官の質の低下を論じている。昔の官僚にはあった国家を経営するという気概が感じられないということだ。現実の実務の場面では、私もよくでくわすことがある。条文を指摘されて、はじめて間違いに気づく窓口の役人も多い。
勉強不足だ。

一 度、ある条例をもってそのとおり運用していないよと指摘した時のことだが、「よくその条例見つけましたね」、と驚かれたことがあるが、これなどは確信犯的 に市民を守ろうという気のない職員だ。おそらく、責任を取らない体質、公開しない体質が、緊張感を失わせていると思う。給料と退職金をもらうことが自分の 仕事だと思っている不埒な役人も中にはいるのだろう。このような一部の不埒な役人に、公的職権をふるまわせるのは良くないと思う。職権を縮小すべきなのだ ろう。

市民が必死になって働いたお金の一部を集めているのは、みんなのために使うためだという意識をもっていただきたい。それによってひ とつの経済の流れがさらに大きく強いものになっていくように、遠きを慮り、策をたてて、社会の批判のもとにさらし、議論を積み重ねて、正しい選択をしてい くリーダーシップをもっていほしいものだ。

この書の中には、昭和30年代の官僚のプライドの高さが語られている。戦後の高度成長を支えたリーダーシップだと思う。皆が中流意識という相互扶助の精神そのものの時代を作った。戦争で人の死や喪失を失った世代の復興への決意があった世代ともいえると思う。

その世代の作った豊かさに甘えている人たちがいるのかもしれない。

特 に官僚組織は、今その既得権益の頂点にたっている。だが、よくかんがえてみると、官僚組織は現実の産業がない限りは存続の意味を失う。だから、今民間事 業がここまでいたんでいるなかで、自分たちの既得権益を主張することは、血税を庶民に強いていると批判されてもやむを得ないのではないかと思う。

これは、大企業の社員も一緒だ。だが、存亡の危機にさらされる機会が多い分まだましだろう。